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市内の「県」指定文化財写真説明


松浦党梶谷城跡(今福町)
 
  今福城山(197m)の山頂にある中世の山城の梶谷城は、平安時代に築城された松浦氏の初期の居城といわれてる。城は山頂部を楕円形状に削って主郭とし、北側に副郭がある。その周囲には石垣をめぐらせ、大手門が西側に、城の西側麓には千人枡と称する石垣をめぐらしてた所があり、館跡と考えられている。

 

文禄の役松浦家供養塔(今福町)

   中央の自然石は、文禄の役に今福松浦家より出兵し、文禄2年(1593)朝鮮平壌の合戦で討死した領主松浦定公ほか7名の将士の名前を刻んだ供養塔である。供養塔に刻まれている文禄の役に関する資料は歴史的に価値の高いものである。

善福寺鰐口(今福町)

   善福寺は、松浦家の始祖、源久公を祀る今福松浦家の祈願所で、鰐口は松浦丹後亀童丸が正平10年(1355)諸人の幸せを願って寄進したものである。南北朝時代の銘がある鰐口は少なく、作柄も良く歴史的に貴重な資料といえる。
 

 

庄野の六地蔵塔(志佐町)

   通常六地蔵は六道において、衆生を苦しみや災いから救うために六種類の地蔵を刻み作られたものである。この六地蔵は高さ約1.5mあり上部に二段七仏と下部に二仏を3面に刻んでいる。また、正面には「逆修」(ぎゃくしゅ)裏面に「天正十四年」(1586)の銘もある。

 庄野の六地蔵塔(志佐町)

牟田観音堂銅造半跏思惟像(星鹿町)
 
   朝鮮半島から請来されたもので、牟田地区の観音堂に古くから伝えられ、地区の人々によって守られてきた仏像である。椅子に腰をおろして足を組み、ほおずえをつくようにして物思いにふける姿の半跏思惟像である。高さ18.4cmの小さな彫像で、朝鮮半島の三国時代の製作になるものと考えらる。

※見学を希望される方は、市教育委員会文化財課までご連絡ください。
 

 牟田観音堂銅造半跏思惟像(星鹿町)

旧金泉寺の銅造如来坐像(星鹿町)
 
   朝鮮半島高麗時代の大型の仏像である。仏像の表情は柔らかで体型の造形も整っている。本像は、金銅仏としては大型に属し、表情や衣文、印相の指の表し方などに、外来仏の特質を見ることができる。造形的芸術性においても、歴史的な地域性においても、貴重な仏像として価値あるものである。

 

弁天島岩脈(福島町)
 
   福島町里免の海岸から約400m沖の弁天島にかけて高さ1〜1.5mの岩脈が断続的につづき干潮時は露出する。この岩脈は、黄褐色の砂岩のさけ目に黒色緻密の玄武岩が貫入したもので、その後海水の浸食により軟らかい砂岩が削られ、硬い玄武岩の岩脈が露出したものである。

喜内瀬川甌穴群(福島町)
 
   甌穴はポットポールともいわれ、河床の岩面に急流の渦によって転動する小石の磨食により生じた円形の深い窪みのことである。喜内瀬川は平常は流れの少ない川であるが、降雨時には相当の水量を増し、河床の玄武岩の割れ目の中に入った小石が渦流のために転がって、長い年月の間に甌穴を生じたものである。喜内瀬川甌穴群は規模の大きなものではないが、河成の甌穴群としては県下では珍しいものである。

櫃崎岩脈(福島町)

   福島町浅谷免の北方の櫃崎海岸には、砂岩を主とする地層が露出している。この砂岩を横切る黒色の玄武岩脈の先端に、長径15mの玄武岩のこぶ状の塊がある。岩脈は、マグマが他の岩石の割れ目に入って凝固し、板状の火成岩をなすのが普通であるが、これは漏斗状に周辺が上方に向け広がっている。直線的な板状のように奇妙な漏斗状をなすのは極めて希な現象で、地質学上価値が高いものである。

福寿寺のイロハモミジ(福島町)

   イロハモミジは、曹洞宗福寿寺の本堂裏の小高い丘に生育している。根元近くの幹まわり3.25mで、その上が四大支幹に分かれている。幹まわりはそれぞれ、1.64m、1.24m、1m、1.9m、これらが上に向かってほぼ平等に広がっている。枝張りは四方に5〜6m、樹高は約20mである。この種としては珍しい巨樹で、樹形も美しく貴重である。

 福寿寺のイロハモミジ(福島町)

福島町の今山神社社叢(福島町)

   この社叢は,福島町のほぼ中央の丘陵の上にある。海抜約160m,平坦な地形によく発達した照葉樹林である。標高15〜20mに及び,スダジイ・タブノキ・アラカシ・カゴノキを主木とする。ほかにヤブツバキ・モチノキなどの常緑樹が生育し,林床にはテイカカズラ・ホウライカズラなどが生ずる。社叢は全体として,北松浦地方の丘陵地をかつておおっていた照葉樹林の原型をよくとどめていて貴重である。

鷹島の銅造如来坐像一体(鷹島町)

   像高77cm、高麗時代前期の作品であるが、対馬、壱岐に見られる高麗仏とは少し作風の趣が異なり、より中国の影響に近いのではないかと考えられる。像は肉髻部(にくけいぶ)の盛り上がりは殆ど見られず、小粒な螺髪(らほつ)が丸くなだらかに頭部を被い、大きな肉髻珠の穴が見える。日本にもたらされているこの種の仏像のうちでも優品に数えられる。

鷹島住吉神社の懸仏53面ほか一括(鷹島町)

   懸仏は鎌倉時代から室町時代に盛行をみたもので,本県では県北地方に比較的多数発見されている。指定の懸仏群は,聖観音,薬師如来あるいは十一面観音などがみられ,珍しいものとしては如意輪観音の懸仏もみられる。小型で,簡素なつくりの素朴なものが多い。この土地の人々が当社への結縁(けちえん)のために寄進した信仰の在り方を示す遺品である。
 

鷹島の管軍総把印(鷹島町)

   昭和49年,鷹島町神崎海岸で発見された。青銅印で,印面には元国字のパスパ文字が刻まれている。「管軍総把印」の意である。鈕の右側には,漢字で「□軍□把□」と判読でき,印面同様,「管軍総把印」と記されていたらしい。鈕の左側にも漢字で,「印」「至元十四年九月造」の字がみえる。これは元のフビライ治世下の西暦1277年で,弘安の役(1281年)の4年前にあたる。総把とは,今日の中隊長程度の将校の意で,この地位にあった者が,弘安の役の際持込んだと思われる。この印は,従来2点発見されているが,わが国内では最初の発見例で,元寇関係資料として大変貴重である。

鷹島の島踊(鷹島町)

   鷹島の島踊は,大幟(六本幟)・須古(すこ)踊・奴(やっこ)踊・浮立の四つの芸能から構成される雨乞いなどの行事で,この踊の原形は,蒙古襲来時の戦勝祝いに始まるとされ,今日の体裁を整えたのは,豊臣秀吉が朝鮮出兵のため名護屋城滞在のおり,この地方の風流踊を所望したので,蒙古襲来にちなむ踊を脚色したものとされている。

鷹島の公孫樹(鷹島町)

   この公孫樹(いちょう)は今宮神社の境内にあり,乳柱が珍しい。地上すれすれのところから3本の幹に分れ,そのうち最大のものは目通り幹まわり4mほどある。この主幹の高さ4mばかりのところから出ている側枝に,数本の乳柱が垂れさがっている。乳柱の最大のものは長さ2.8m,その基部のまわりは1.8mもある。乳柱の大きさとしては日本有数のものである。乳柱の発達するのは雌株より雄株に多いという。これは雌株で,その点でも,むしろ例外といえる。

 

鷹島住吉神社のアコウ(鷹島町)

   住吉神社は鷹島町の北部に近い里免にある。境内は広く,参道の両側とともにいろいろな樹木が茂り,立派な社叢を形成している。社叢内に3本のアコウがある。指定の木は本殿横にあり,樹高18m,目通り幹まわり4.5mある。このアコウは九州西岸における分布の北限である。


 


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教育委員会 文化財課
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